自分の拠り所とするもの○

 前回ブログの自信と自疑の話しにつながるのですが、私は自分の拠り所とするものは自分だと考えていました。しかし、これだと自分の考えなんて高が知れてますから、間違いもしますし、てんで弱い存在ですよね。でもそれはある程度仕方ないと思っていました。人間なんて、弱いし、間違うし、みんなそうやって生きていると思っていました。しかしその考え自体、間違っていたのかもしれません。

 そもそも自分を拠り所とする時点で間違いなのです。ここから先は、武道や武士道の話しになっていきます。ただし私見が入りますので、その点ご容赦ください。(武道とは?武士道とは?の話しは、ごかんべんください。武士道の本と言えば、『新渡戸稲造著 武士道』があります。私も読みました。ご一読を。)

 自分は正しく在りたい、でも自分が正しいかどうかの判断は分からない。ではどうしたらいいのか。それなら拠り所を自分ではなく、自分のもっと上の存在に置くのです。思えば、過去から現在に至るまで、人はそうやって、正しい行いという物を身につけて来たように思います。私心、私欲を捨て、師に付き従う。この滅私の発想を持てるかどうかが、鍵なのではないでしょうか。

 これを実行できる人は、強く、正しく在ることができます。しかし、何かの際に、師の言動が自分の想像と違っていた場合、ある意味自己否定をし、師の考えを是としなければなりません。これを自然に行うことができる人が、自分に正しさを取り込めるのでしょう。そう考えれば、自己否定は何も悪いことではありません。自己の主張が過ぎたり、出しゃばりは、良かれと思ってやっても受け入れられません。

 ここで、勘違いしていただきたくないのは、「私心、私欲を捨て」と言うのは、何も考えないロボットになるというのではありません。ただの指示待ち人間とは違います。やるべきことは、自ら進んでやるのです。そして余計なこと、出しゃばったマネは一切しないのです。こう書くと、結構難しいでしょう?誰にでもできることではないのです。自分で考えて、自分の意志で私心・私欲を捨ててみるのです。

 そして、会社の上司でも、親でも、学校の先生でも、自分が師を仰ぐ人でも、誰でもいいですから、その人ならどう考えるか、その人の為に何ができるかを考えて行動するのです。これなら、間違った行動は取らないでしょう。実は、こうは書きましたが、自分ではまったく出来ていません。謙虚でいることの難しさを実感します。

 世間を見ても、大きな存在になっても、偉ぶらず、謙虚でいる方のほうが、正しい生き方をしているように感じます。反対に、TVでちょっと売れて来て、生意気な態度を取っていたタレントなんかは、あっという間に姿を消していますね。ただ控えめにしていればいいというわけではなく、判断基準を常に、自分よりも上に置いているから、間違わずに人生を歩んでいるんだと思います。

 ちなみに私の名前は「謙一」です。そう、『謙虚』の『謙』なんです。どうして親が自分にこの名前をくれたのかしっかりと考えなければいけませんね。

 

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